こんにちは。やすひろです。
先日ある生徒からこんなことを言われました。
学校の先生の授業はまったくわからないけど、先生の授業はよくわかります
この発言に対してのわたしの返答は
先生によって、それほど差はないと思うよ
わたしは、教師として最低限の能力があれば、だれが授業をしても大差はないと思っています。ここでいう最低限の能力とは
教科を指導するための知識
教室全体に聞こえるだけの声量
順序だてて説明する能力
生徒に理解してほしいと思う気持ち
これらを兼ね備えていたら、おそらく誰が授業をしても大差はないと思うのです。
最低限の能力
わたしが上げた最低限の能力のうち、一番欠けていることが多いのが、
教科を指導するための知識
教師なのに、教科を指導するための知識がないということは、走れないのにアスリートをしているのと同じだと思います。
走ることすらできないアスリートが、何かしらの競技で活躍することはできるでしょうか?結果は言わなくてもわかると思います。
教師だって同じなのです。教科を指導するための知識があることが最低条件なのです。伝え方云々はその先なのです。だって、知識がなければ伝えることがありませんから。
教科を教えるための知識を持っている教師同士であれば、
あの先生は圧倒的にわかりにくい
となることは、少し考えにくいです。
なぜそうなるのか?
わたしは自分が最低限の能力しか有さない教師だと思っています。それなのに、生徒たちからは
先生の授業はわかりやすい
と言われることが、たびたびあります。そのたびに、大差はないのにと思いますが。
なぜ大差がないのに
この先生はわかりやすい、あの先生はわかりにくい
となってしまうのだろうか?その一番の原因は教師との相性だとわたしは思います。塾は学校よりも自らの意志で通っていると考えられます。
それだけで、生徒たちは学校の教師の授業より、塾の教師の授業を好意的にとらえているでしょう。その差が、授業のわかりやすさと密接につながっているのかもしれません。
理解しようとしない
長年塾講師をしてきてわかったことがあります。それは、
理解しようとしない人を理解させることはできない
自分にはわからない問題なんだと強固に思っている生徒に、いくら説明しても理解させることはできないということです。
理解する気持ちがない生徒に限って
あの先生はわかりにくい
という傾向にあります。しかし、それは教師の問題なのだろうかと疑ってみてください。あなた自身に理解する気持ちはあるのかということを。気持ちの確認をするよりも
理解しよう
と思って授業に臨むだけで、教師に授業のわかりやすさは大幅に変化すると思うのです。
他の例で考えてみましょう。一流の漫才師たちが集う劇場に足を運んだとしましょう。
漫才なんてくだらない
と思って参加したら、漫才を披露してくれた一流漫才師たちの漫才をおもしろいと思うことはないでしょう。でも、
今日は思いっきり笑うぞ
と思って参加したら、漫才を披露してくれた一流の漫才師たちの漫才をおもしろいと思うでしょう。
教師の授業も同じだと思うのです。あなたが理解しようと思って授業に臨むか、それとも、理解できないと思って授業に臨むか。それだけで結果は180度変わります。
「自分はできる」とまで思わなくてもいいです。でも、何かを行うときにはできるだけ、「自分にはできない」と思わないようにしましょう。なりたい自分になるための近道です。
最後に
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